永井謙佑と名古屋グランパス
永井謙佑選手は1989年3月5日生まれの33歳。広島県の出身だが、父親の仕事の都合で3歳の頃から家族と共にブラジルに移住した。そのためポルトガル語も簡単なものなら喋ることができる。
帰国後は福岡県北九州市に在住。吉田晃と同じ九州国際大学付属高校に進学。3年時に全国高校サッカー選手権に出場している。(2回戦敗退)
福岡大学時代には数多くのチームから勧誘され、2009年にはアビスパ福岡、2010年にはヴィッセル神戸から特別指定を受けている。
名古屋グランパスがJリーグ5クラブによる争奪戦に勝利し、2011年に加入する。
「あれはスピード違反にならんかなあ?」(木村和司)
2011年3月5日、豊田スタジアムで行われたJ1開幕節横浜F・マリノス戦。1点を追う後半21分から途中出場。50m5秒8の快足を生かした突破力を存分に発揮し、日本代表DF中澤佑二を一瞬のスピードではがして裏を取った。後半アディショナルタイム、自陣で中澤からボールを奪った永井はPA内でDF栗原勇蔵をかわしてドリブルで突破すると、それを後ろから引っぱった栗原のプレーがPKに。これをFWジョシュア・ケネディ(当時29歳)が沈めて1-1に追いつき、貴重な勝ち点1をもたらした。
試合後のインタビューで木村和司監督が語ったのが「あれはスピード違反にならんかなあ?」という言葉だ。
この試合で頭角を現した永井謙佑はその後レギュラーに定着し、27試合3ゴール、翌2012年には10ゴールを挙げる。
永井謙佑とロンドンオリンピック
永井謙佑を多くの人に知らしめたのが2012年のロンドンオリンピックだ。以下がモロッコ戦であげたゴール。このカタチは得意なゴールのとりかたで、このあとも何度も同じようなループシュートを決めている。
エジプト戦で先制点を挙げたあと、負傷離脱してしまうが、そこまでエースとして大活躍、永井謙佑の怪我がなければメダルの獲得もあり得たのでは?と言われている。
永井謙佑とスタンダール・リエージュ
念願だった海外移籍を2013年1月に果たす。移籍金を払っての完全移籍。しかし現地でのトレーニングが合わず、すっかりフォームをおかしくしてしまう。一説には、当たり負けしない身体作りを求められ、持ち前のスピードを失ってしまった、という話もあった。
名古屋グランパス一度目の復帰と復活
2013年8月に期限付き移籍で戻ったものの、調子を戻すには2013年の残り半分を費やした。永井謙佑にとっての一度目の挫折となった。
2014年は名古屋グランパスにとって激震の年になった。阿部翔平、増川隆洋、田中隼磨とピクシーグランパスを支えていたDFラインを3人とも解雇した。ダニエル、藤本淳吾も去った。
チームとしてはかなり苦しいタイミングだったと思われるが、そのなかで孤軍奮闘したのが永井謙佑だった。最終節永井謙佑のアディショナルタイムの決勝ゴールには興奮した名古屋サポーターも多かったのではないだろうか。永井謙佑はリーグ戦で12ゴール、カップ戦含めて19ゴールと、名古屋グランパスの堂々たるエースになった。
その年の永井謙佑のFootball-labの評価は以下の通りだ。
ロングシュート、セットプレーシュート以外のほとんどの攻撃系指標が高い数値と言える。間違いなく1つめのキャリアの頂点だった。
降格と名古屋グランパスとの別れ
2016年小倉監督のシーズンが始まる際に、また一悶着があった。主力のDFだった牟田雄祐と本多勇喜が突如京都サンガに移籍、田中マルクス闘莉王が契約延長せず、とDFラインがガタガタに。代わりに獲得したオーマンは日本に馴染めなかった。結局夏に闘莉王が復帰するも、時既に遅し。最終節に湘南ベルマーレに勝つことができず、降格してしまった。
守備が安定していないということは、攻撃機会が減るということになる。永井謙佑もこの年は7ゴールに終わる。
永井謙佑は2013年夏にレンタルで復帰、2014年に完全移籍に以降したため、3年契約で2017年夏まで契約を残していたが、名古屋からのオファーは2017年末までの半年延長オファー。それに怒った永井謙佑は態度を硬化させる。
そこにオファーをしてきたのがFC東京。完全移籍する。
永井 謙佑選手、FC東京へ完全移籍のお知らせ|ニュース|名古屋グランパス公式サイト
移籍の際には以下の発言が物議をかもした。
Q:この移籍を良い移籍にすることで、少しでも恩返しにできるのかもしれません。
「そうですね…。オレがいないことを後悔してもらえるぐらいのプレーを、来季は見せられたらと思います。そのための努力をします」
【再掲載】【クラブニュース】永井謙佑のFC東京移籍が正式発表に。「やっぱりFWでやりたかった。それが決め手でした」 : 赤鯱新報
この部分だけが切り取られ、出回ることになった。
サポーター側のロジックとしては以下のようになるだろう。
「延長オファーはしたのに、自分から出て行く。そのクセ、いないことを後悔させるっていうのはどういうことだ」
だが、永井謙佑の側のロジックはこうなのではないだろうか?(推測)
「シモビッチに次ぐ2番目のゴールを挙げている自分に半年延長というのは、おかしいのではないか?(それまでは3年契約、1年レンタル、3年契約と長期契約で来ていた)。闘莉王や小川佳純のような功労者も切っているし、選手へのリスペクトを感じられない。俺がいなくなったグランパスがどれだけ苦労するか見ているがいい。」
永井謙佑の立場を想像すると、わからないでもない。本当に腹を立てたのだろう。
だがおそらくこの状況で複数年契約を提示された選手はいなかったのだ。またこの状況で契約延長オファーを受けても断ったのでは、と思われる選手もいる。(最初に契約満了を告知された闘莉王や小川佳純、竹内彬、イ・スンヒ、明神智和、野田隆之介、西村弘司、森勇人、安田理大、グスタボまでが名古屋が切ると決めていた選手だと思われる。)
サポーターとしては、この苦しかったときに見捨てられた、という思いが強いと思う。だが、2014年から2016年秋までに功労者を切りまくった流れは、選手のメンタルに大きな影響を与えていたのは間違いないと思う。傷ついていたのはサポーターだけではなかった。
第2の黄金期
東京に移ってからの永井謙佑は主に2トップの一角として活躍した。2019年のディエゴ・オリヴェイラとの2トップがもっとも輝いたと言えるだろう。
この年の永井謙佑はリーグ戦9ゴール、トータル11ゴールを挙げて、FC東京の上位躍進を支えた。日本代表にも復帰し、キリンチャレンジカップエルサルバドル戦では2ゴール、W杯2次予選モンゴル戦でもゴールを挙げるなど、2019年が第2の黄金期と言って良いだろう。
現在にも続く永井謙佑の弱点
しかし好事魔多しとはよく言ったもので、その2019年、永井謙佑は大怪我を負ってしまう。
2ゴールの永井謙佑が無念の負傷交代…DFとの接触で右肩を抑え、そのままロッカールームへ
6月9日のエルサルバドル戦で2ゴールを挙げており、ハットトリックも期待されていた。しかし55分、相手DFとの接触で肩を負傷してしまう。そのまま途中退場。この時点で詳細は明らかにされなかったが、恐らく肩の脱臼。
このまま戦線離脱かと思われたが、インターナショナルマッチウィーク明けのリーグ最下位戦にCFでフル出場している。この時点でFC東京は首位を争っている最中。多少の無理をしての復帰だったのではと想像される。
夏場過ぎから徐々に調子を落とし始め、8月10日以降はわずか1ゴール。11月30日の浦和レッズ戦で再び肩の負傷で退場した後、逆転優勝のかかった12月7日の横浜Fマリノス戦ではフル出場。しかしノーゴールで終わり、その5日後に肩の手術を行っている。
その症状は「肩の可動域が制限されてしまう右肩関節拘縮(みぎかたかんせつこうしゅく)と、それによる腕のしびれなどが出る腋窩神経障害(えきかしんけいしょうがい)」。
肩関節拘縮とは
肩関節拘縮は、中高齢者によく見られる「四十肩」と呼ばれる症状の原因です。肩の関節包が厚くなり、伸びにくくなります。これを癒着と呼んでいます。
度重なる脱臼によって固定を繰り返すことで、運動不足の中高年と同じように肩関節が動かせない状態になったものと推察されます。肩関節拘縮では自力で動かすことが困難になり、他人のちからを借りても肩を動かすことが困難になってきます。
腋窩神経障害とは
腋窩神経は、腋窩(わきのした)から三角筋へ、また上外側上腕皮神経として肩外側の知覚を担う神経です。永井謙佑の場合は度重なる外傷で腋窩神経障害を起こしてしまっており、症状としては肩が上がらない、腕のしびれや知覚の低下が見られます。通常数ヶ月で自然回復しますが、永井謙佑選手の場合は度重なる脱臼で改善せず、おそらく神経剥離術などの手術を伴ったと思われます。ちなみに野球のピッチャーによく見られる症状でもあります。
なお、編集長が野球を辞めるきっかけになったのも骨棘と肩腱板断裂とそれに伴う腋窩神経障害でしたので、本当に痺れと痛み、肩が動かない症状がどれだけ辛いのかはわかるつもりです。
2020年以降の永井謙佑
2020年は手術の影響で開幕の出場はできなかったが、COVID-19の影響でリーグが7月まで中断したため、そこからは出場することができるようになった。
しかし成績は振るわず、20年は4ゴール、21年は2ゴールに終わった。
転機となったのはポゼッションサッカーを目指すアルベル監督の就任だ。アルベル監督は一貫してサイドハーフとして起用。
ここまで20試合に起用しているがノーゴールに終わっている。
その起用の違いは2020年と、2022年のヒートマップ(ボールを触った位置の統計)を比較してみると良くわかる。
2022年になってあきらかにボールの触る量は増えた(ポゼッション志向)が、ボールを触る位置はライン際にかなり限定されている。これはフォワードとしてのプレーにこだわる永井謙佑の本意とするところではないのだろう。
2017年、ポゼッション志向の風間八宏監督のもとでのプレーを嫌って移籍し、2022年同じくポゼッション志向のアルベル監督のもとでのプレーを嫌って移籍したことは偶然ではないだろう。
永井謙佑になにが期待できるのか
Football-LABのプレイイングスタイル指標の統計が出るようになった2014年以降の統計を見てみよう。
決定力では衰えが見えるものの、パスレスポンス、ドリブルチャンス、クロスチャンスの値は高い。ドリブルとクロスが計算できるからこそのサイドハーフでの起用と思われるが、なかでも一貫して高い数値を維持しているのは「パスレスポンス」の値だ。
この値は「パスレシーブからチャンスを構築したポイント」「ペナルティエリア内パス受け数」「スルーパス受けからのシュート数」「ロングパス受け数(空中戦除く)」の4つのデータから合成されたものとなる。すなわち、パスにどれだけ反応して危険な位置でチャンスを作れたか、というポイントだ。そして一瞬のスピードが持ち味である永井謙佑の命となるスコアといっていいだろう。この値のランキングでは、各チームのセンターフォワードが名を連ねている。
現在の名古屋グランパスは相手チームにとって危険な位置でボールを受け、決めきる選手を求めている。こうしてみてみるとナウドと永井謙佑の獲得は、考え抜いた末のものであると考えられる。
永井謙佑の名古屋グランパスでの活躍と、第3の黄金期を期待しよう。