いよいよ7月4日になると、僕たちのサッカーが帰ってくる。
ただ、FC岐阜戦を見て、少し不安になった人はいないだろうか。新型コロナウイルス罹患者を2人も出し、他のチームに比べて2週間以上も準備期間が短い。フィジカルコンディションもあきらかに相手チームより悪い。
致し方ないとはいえ、悪い予感を持つ人も少なくないだろう。チームがうまくいかないときに何が起きるのか。
その「悪い予感」の正体について、今回はみぎさん @migiright8 に書いて貰った。
ちょっとだけ、編集人から蛇足を書かせて頂く。
中島みゆきの「世情」という曲はご存じだろうか。
世の中はいつも変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする変わらないものを何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにするシュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を流れに求めて時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと戦うため
僕も、みぎさんも、そしてこのページを読んでくれているみんなの多くも、グランパスに夢を抱いてくれていると思う。でも夢で済まない世情というのもあったりする。是非、みぎさんのこの魂の叫びを読んだ感想を、寄せて欲しい。
はじめに
クラブを愛する者を乱暴にも二通りに分けてみる。
一方は徹底的に勝敗にこだわる者。もう一方はときに勝敗に目を瞑ってもクラブの未来に夢を見る者。
実際には楽しけりゃなんでもいい人もいれば、分かったとりあえずイケメン連れてこいって人もいるわけで、世界はそんな単純ではない。
なんだって素敵だ。
ただ今回の話でとりわけ焦点を当てたい層は、その対極にも見える「結果を追うこと、理想を追うこと」という2つの層だ。
いや、もちろん誰だって目先の勝敗には拘りたいし、夢だってみたい。右にも左にもイケメンや美人がいれば、どちらにも手を出したくなるのが人間の性である。とはいえ現実とは残酷なもので、そんな都合よくどちらも手に入ることはそうそうない。
近年の名古屋グランパスに目を移せば、まさにその理想と現実、この狭間でクラブはもがき苦しんできた。
風間に夢を見た者と地獄を見た者
最近、よくこんな自問自答をする。
「名古屋グランパスといえばどんなチーム?」
悔しいかな、絞り出す答えはこうだ。
「……ピクシー……直志……楢崎正剛」
いつだって我々のアイコンになってくれたのは、カリスマ性のある〝選手〟だ。ただそんなクラブの体質は、2016年に降格という最悪の結果で弾け飛ぶ。今更ながら、あの時だって我々は小倉隆史にたくさんの荷物を背負わせた。そう、これが我々の歴史なのだ。
そして、初めてのJ2の舞台。名古屋の地には、やはりと言うべきか、新たなクラブアイコンが登場した。
泣く子も黙る止める蹴る、風間八宏である。
ただこのとき、我々のクラブは歴史の転換期を迎える。新たに社長の座についた小西社長を筆頭に、クラブは風間八宏におんぶに抱っこではなく、彼の在任中に「止める蹴るエキス」を吸えるだけ吸ってやろうと画策する。つまり、彼のメソッドを名古屋にそのまま移植する一大プロジェクトがその全貌だ。
そのプロジェクトへのカウンターとして巻き起こったのが、「風間でいいんかムーブメント」。
待て、そもそも名古屋の屋台骨が彼のメソッドを前提に組み立てられて良いものか。
とりわけ問題視されたのは、彼の超がつくほどの技術至上主義的なその発想だ。そして相手に絶対こびを売らないそのスタイル。
「相手とは、合わせてならぬ、操つるべし。」
あっはっは、余談ですが我が人生は操られてナンボです。
「頼む、風間だけはやめてくれ」
まあ分かる。それなりに風間を支え隊だった私に対し、最近「風間を悪く言うな!(意訳)」との熱い反論があった。せっかくなので、私のスタンスをここではっきりしておく。チームが長期的に強くなっていくための土台づくり、この点における風間八宏はやはり適任だったと考える。だが一方で風間八宏こそ至高、勝つための最良の人選こそ風間八宏だとは思わない。だってさ、勝てなかったじゃない。
結果が全てで、それがプロ。仮定の話はゴメンだ。
それでも尚、彼を支持したのは、彼ならやってくれる気がしたからだ。〝名古屋らしさ〟をピッチ上に作れるのは、ガチで引くくらい尖りまくった風間八宏しかいない。そう信じれるほどに、まさに彼は〝出過ぎた杭〟だった。もはや己の信条を挟む余地はない。名古屋で大きな風を起こす。その気概だけで充分だった。
だが周知の通り我々はその賭けに負けた。いや、負けて負けて負け続けた。そして2019年夏、クラブは彼のクビをきることで、この冒険に終止符を打つ。悲しいかな、そのときクラブから発せられた談話は「いかに風間のままだとヤバかったか」その一点に集中した。そう、あのときもまた、我々は一人のアイコンにその責任を全て押しつけ、過去と決別しようとしたのだ。
「人のせいにするな」が口癖だった風間の責任だと。
夢が大嫌いな超現実主義の国からやってきた刺客
代わりにやってきたイタリアの伊達男マッシモ・フィッカデンティ。尋常ならぬ高低差で耳キーンな超展開。
クラブは継続路線を強くアピールしたものの、マッシモが最初に取りかかったのは案の定、過去のチームとの決別。そして自分色のチームへの染め直し。
金遣いの荒さでいえば風間八宏一強かと思われたがマッシモも負けちゃいない。そしてそれに振り落とされまいと必死で手綱を握る大森氏。さながら制御不能な大型犬に振り回される華奢な飼い主。私は大森氏のセンスが好きだ。ただ一方でこうも思う。結局、名古屋のためにやっているのではない。監督である彼らのため、そしてそれを担ぐ己のためにやっているのだ。
例えばこんな声がある。
「風間八宏で残ったものなんか何もねーよ」
これは〝残らなかった〟のではない。
正しくは〝残すつもりがなかった〟のだ。
マッシモだけではない。クラブも含め、少なくともピッチ上に用意したそれは過去の清算である。それでもむず痒い思いなのは、まだ風間八宏の匂いがそこに残っているから。彼を慕った選手の技術と、カネと政治に塗れていないアカデミーにそれは生き続ける。
俺たちは金がないと死ぬ
(蛇足だらけの前置きよ)。
我々が歩んできた道のりは、まさに〝らしさ〟の追求と、それに相反する〝目先の結果〟への追求だ。
圧倒的な個人の存在感でボカせた時期はあったものの、そのカリスマが去れば毎度この船は難破寸前。
ただこれはどのクラブも同じである。浦和だって黄金期の後は迷走したし、ガンバだってヤットの年齢の移ろいと共に陰りが見え始め、新たなスタイルを模索中だ。その一方で、鹿島は言語化不能の〝鹿島らしさ〟と、体育会系なキャプテン列伝によって不動の地位を築いたし、川崎にいたっては皮肉にも風間八宏エキスをその血に通わせ続けることで文化が生まれつつある。恐ろしいのは横浜で、世界一のクラブに資本をぶん投げて兄弟盃を交わすなんて暴挙にでやがった。
では、名古屋はどうか。
投資そして清算の繰り返し。ビルド&スクラップだ。
圧倒的な資金力で選手をかき集め、駄目なら一から解体する。昨日まで我がクラブのアイコンだった選手たちは、今日にはお払い箱になることだって時にはある。こうせざる得ないのは、ひとえにクラブを取り巻く環境の問題だろう。結果が全てなのだ、我々は。
ただ皮肉った言い方をすれば、実際コンスタントに結果が出続けているのは圧倒的な支出であり、その費用対効果が検証され、活かされた実感はない。このクラブ、掘れば掘るほどお金が湧いてくる錯覚にすら陥るが、実際に枯渇したらどうなるかを我々は2014〜2016の3シーズンにかけてすでに経験済みだ。
楽しめ波乱万丈な人間ドラマを
くそ、こんなにクラブを愛していても、でてくるのは恨み節よ。だって気づいたんだ。結局、名古屋らしさとは〝ドラマ顔負けの人間模様〟じゃないのかと。
そうなると重要なのは、コンスタントに起こるそのビッグウェーブを乗りこなす圧倒的気概。オフシーズンの話題になれば独占放送権は我々のもの。
金が使えるこのブルジョア的特権に卑下する必要はないし、むしろ金が使えるのはどう考えても正義だ。
ただどうだろう。マッシモで、もし駄目だったら。
我々はまた一からやり直すのだろうか。チームを解体し、過去を過ちだったと規定し、清算することで。
この数年間で改めて学んだことは、やはり我々のクラブには〝目先の結果〟こそ必要であるということ。結果を残せない理想など、このクラブには価値がない。
だからこそ思う。〝変わらない何か〟が大切だと。
それは例えばこのクラブを愛してやまない応援する者達であり、このクラブを支えるスタッフの方々。トップチームに左右されない確固としたアカデミー体制。チームのシンボルはカメレオン。ならばそれを取り巻く者達はいついかなるときも〝不変〟でありたい。
そういう貯金を地道に積み重ねることで、いつの日か見たことのないようなクラブ、〝名古屋らしさ〟に自信を持てる日がくるのではないか。こんな波乱万丈な日々でも、クラブは地味にそんな貯金、いや遺産を残そうとしている気がするのである。まあトップとアカデミーの順序が逆な気もするが、それもご愛嬌だ。
私はマッシモ率いるグランパスを応援する。でも勘違いしてくれるな。これはマッシモのクラブではない。
〝我々の〟クラブだ。
よし締まったと思ったところで気がついた。結局、結論は「変わらないグランパスくんはやはり尊い」。