らいかーるとさんの新刊『アナリシス・ブレイン』が刊行されました。
この機会に、前作『アナリシス・アイ』と『アナリシス・ブレイン』を読み、その内容を単純な書籍紹介ではなく、「名古屋グランパスに置き換えるとどう見えるのか」という視点でかみ砕いていこうと思います。
本シリーズでは、7月のキャンプインまでの間、『アナリシス・アイ』と『アナリシス・ブレイン』を手がかりに、サッカーを見るための視点、そして名古屋グランパスを見るための補助線を整理していきます。ここからはアナリシス・ブレインを読んでいきます。
なお、この記事にアフィリエイトの意図はありません。グラぽの記事ややわらかめコラムを読む目も変わってくる本だと思いますので、興味を持った方はぜひオリジナルを手に取ってみてください。
アナリシス・ブレイン ~サッカーの面白い戦術分析の視座、手に入れよう~(小学館新書)
- 著者:らいかーると
- 出版:小学館新書(2026年)
アナリシス・アイの記事はこちら
7年経っても、変わらなかったこと
「アナリシス・ブレイン」を読み始めてほっとしたのが正直なところです。
「いやいや、もう7年も経ったんだから、なにもかも違うよ!」
なんてことを言われたらどうしよう。そんな不安を抱えながら読み始めたのですが、「ああ、ここは変わっていないんだ」と、旧友に再会したような気持ちになる部分がいくつもありました。そして、変わらなかったことにこそ、このらいかーるとさんの分析に一本筋が通っていることが伺えます。
まず揺らがないのが、結果ではなく現象を見るという姿勢です。らいかーるとさんは「アナリシス・ブレイン」の冒頭でも、挑発的なほどはっきりと「試合結果にはあまり興味がない、何がどうして起きていたかに興味がある」と書いています。
サッカーはロースコアで番狂わせの起きやすい競技だからこそ、スコアで内容を判断してしまうと何も学べません。
「アナリシス・アイ」で「決定機の数と再現性で内容を評価しよう」と説いた哲学は、「アナリシス・ブレイン」でもそっくり生き残っています。むしろ「アナリシス・ブレイン」では、観客やサポーターが選手・監督の意図を理解することが結果を変えうる、という一歩踏み込んだ希望まで添えられています。我々のような書き手にとっては、背中を押される一節と言えます。
その姿勢を支える本質も不変です。サッカーは「時間」と「スペース」の奪い合いである。らいかーるとさんはこれを「現在でも全く変わっていない」と明言します。(詳細はアナリシス・アイ第1章記事を参照)
スペースとは単なる空間ではなく「プレーが可能な空間」のこと。そして時間とは「認知し、判断し、実行するためにかけられる時間」のことです。この2つを物差しにすれば、ピッチ上のほぼすべての現象を測れます。その出発点は、7年前と1ミリも動いていません。
攻守をつなぐ蝶番(ちょうつがい)である「守備の基準点」という用語も健在です。
「この選手にボールが入ったら自分が奪いに行く」という担当の所在。これを乱すのが攻撃で、これを明確にするのが守備だ、という読み筋は、後で見るフリーマン論の土台として「アナリシス・ブレイン」でも全力で機能しています。選手を評価する軸も同じで、味方に時間とスペースを配れる選手が良い選手である、という一点は両書を貫いています。
そして個人を見るときのモデルも、選手論の根として変わりません。「見て、認知して、判断して、実行する」、その上で「未来を見る」。チームの約束事を守れるかどうかが勝敗を分けるという、あの「最後は人間性」という言葉も、ちゃんと同じ場所に置かれています。
らいかーるとさんはこの「残す」という判断をこう説明しています。「大切なことは何度も目の前にあらわれる」。だから外せない部分はコピペではなく、現代の視点から語り直して残したのだ、と。
では、その「変わらなかった核」を確認したうえで、いよいよ本題です。これだけの背骨を保ったまま、らいかーるとさんがそれでも一冊を書き直さねばならなかった理由は何だったのでしょうか。「アナリシス・ブレイン」の「はじめに」で、らいかーるとさんは「サッカーの進化に完敗した気分」だと告白しています。
試合を書き起こすことが、なんだか難しくなっている、と。
何が起きて、何が彼を「完敗」させたのか。
あれだけの背骨を残したまま、らいかーるとさんが一冊を書き直さざるをえなかった。
その「変わった部分」を、これから4つの切り口で見ていきましょう。
7年経って、変わったこと(1) マンマーク全盛の時代
これは、前作『アナリシス・アイ』の時点でらいかーるとさんが立てていた予測が、見ごとにひっくり返ったトピックです。
前作のなかでらいかーるとさんは、「味方同士が連動してスペースを埋める『ゾーンディフェンス』が主流の現代において、特定の相手にぴったり張り付く『完全なマンマーク』はもう時代遅れだ。3バックや5バックを採用するチームが、戦術のアクセントとして部分的に再評価している程度にすぎない」と結論づけていました。
ところが、最新作『アナリシス・ブレイン』では一転して、いまやマンマークこそが現代サッカーのトレンドの最先端(全盛期)であると語られます。
らいかーるとさんはその決定的な歴史の転換点として、2024年のヨーロッパリーグ決勝(アタランタ対レヴァークーゼン)を挙げています。当時、レヴァークーゼンは選手が流動的にポジションを入れ替え、捕まえどころのない巧みなパス回しで「公式戦51試合無敗」という驚異的な記録を打ち立てていました。しかしアタランタは、相手の選手一人ひとりに文字通り1対1で泥臭く張り付き、圧倒的な球際の激しさと運動量(強度)で、その美しいパスサッカーを力づくで完全に機能停止(完封)させてしまったのです。
※ このアタランタを優勝に導き、そしてグランパスと提携しているA.S.ローマの監督に招聘されたのがガスペリーニ監督です。ミシャはこのガスペリーニ監督のサッカーに強い影響を受けていると公言しています。どうです?こうしてみると、いろんなものが繋がってきませんか?
なぜ、一度は廃れたマンマークが「全盛」となったのか?
その理屈は、実は非常にシンプルです。
近年のサッカー界では、「チーム全員がピッチ上でどういう立ち位置(配置)を取れば、チェスの盤面のように論理的な優位(フリーの選手)を作り出せるか」という戦術(配置かみ合わせ論)が極限まで突き詰められました。
攻撃側があまりにも緻密にポジションを計算してパスを回してくるため、守備側が「スペースを埋めて守る(ゾーン)」だけでは、どうしても後手に回って守りきれなくなってしまったのです。
そこで守備側が行き着いた究極の対抗策が、「相手がどんなに頭を使って有利なポジションを取ろうが、目の前の人間にぴったり張り付いて、最初からパスを出させなければいい」という、力づくのマンマークでした。
- 攻撃側の進化: 「立ち位置(スペース)」の工夫によって、頭脳的に有利を作ろうとする
- 守備側の対策: 緻密に作られた仕組みを、「人(1対1の徹底的なマーク)」によって根本から叩き潰す
つまり、「位置(戦術)で作られた有利さを、人(肉体)の力で強引にもみ消す」という手法です。
この戦術の進化が行き着いた結果、ピッチ上では戦術の智惠比べの先にある、「純粋な1対1の肉体戦(フィジカルバトル)」が勝敗を分ける最も重要な要素として表舞台に浮上してきた、というのが『アナリシス・ブレイン』の下した現代サッカーの診断です。
7年経って、変わったこと(2) 3-2-5という標準配置
「アナリシス・アイ」には無く、「アナリシス・ブレイン」で「猫も杓子も」と書かれるまでに一般化したのが3-2-5です。らいかーるとさんはこれを、サッカーの王道4-4-2を攻略するために生まれた配置だと位置づけます。
3-2-5の肝は、チームをビルドアップ隊(後ろの3-2)とフィニッシャー隊(前の5)に役割分解して設計図を読む、という視点です。「アナリシス・アイ」が「フォーメーションの数のかみ合わせ」で試合を読んでいたのに対し、「アナリシス・ブレイン」は「数」ではなく「前後の役割分業」で読む。同じ配置でも、後ろ5枚で何をして前5枚で何をするのか、という機能の話になっています。
出発点は「ボール保持の安定」です。現代サッカーで試合のテンポを握るには、ハイペースに振るにせよローペースに落とすにせよ、まず安定してボールを持てることが前提になります。そのためには自陣の配置のかみ合わせで優位を作る必要があるわけです。最近では名古屋グランパスでも見るようになった「11対10」というGKを足し込んだ数的優位に、配置のかみ合わせによる時間とスペースを上乗せできれば、ボール保持はぐっと安定します。
その最適解として、サッカーの王道である4-4-2に対してかみ合わせが優位になる3-2-5が「猫も杓子も」というレベルまで普及した、ということです。
らいかーるとさんが鋭いのは、ここに「ビルドアップ隊5人+GK/フィニッシャー隊5人」という数字のバランスの良さを指摘している点です。グアルディオラがかつてビルドアップ局面を「8対6」と表現した発想の延長で、ピッチを後ろの組み立て役と前の仕留め役に役割分解する。3-2-5はこの分業がちょうど5対5(+GK)に割れるので設計しやすい。しかも、ビルドアップ隊が詰まったときにフィニッシャー隊から人を1枚下ろして出口を作れる(和泉竜司や木村勇大がよく中盤に「あらわれる」のはこの理屈です)。この人数調整のしやすさが、3-2-5が現代サッカーの標準になった構造的な理由だと説明されています。
現代サッカー一般から見た3-2-5の系譜
3-2-5そのものの源流はもう少し遡れます。攻撃時に5レーンを5人で埋める発想は、グアルディオラのポジショナルプレーが「各レーンに最低1人、同じレーンに2人を置かない」という配置原則を徹底したことに端を発します。
3-2-5が「可変」として一般化した最大の発明が、偽サイドバックの文脈からです。
重要なのは、3-2-5が「最初から3-2-5で並ぶチーム」と「4バックや3バックから可変で3-2-5になるチーム」の2系統で広まったことです。前者はらいかーるとさんが「5レーンにまず立て!という愚直な方法論」と表現する固定型。後者は偽SBやリベロの押し上げで動的に作る可変型です。Jリーグで言えば、ミシャ式は明確に後者の可変型の元祖格にあたります。
らいかーるとさんがJリーグの状況に触れている点も見逃せません。「Jリーグではロングボールによる速攻の混沌を支配する戦術が流行する一方、柏レイソルのようなボール保持で試合をコントロールするチームが結果を残す、興味深い流れ」という観察です。これは現代サッカー全体が「ボール保持で安定させる3-2-5」と「混沌(トランジション)で殴る強度型」の二極で進んでいる、という大きな構図のJリーグ版です。3-2-5は前者の旗印です。
3-2-5が抱える宿命的な弱点
3-2-5を深掘りするなら、その裏側も押さえる必要があります。書籍のマンマーク論がそのまま3-2-5の弱点の説明になっています。
第一に、後方が3-2の5枚しかいない以上、ボールを失った瞬間のネガティブトランジションで、前線5人と後方5人の間が間延びしやすい。3-2-5は構造的に「自分たちがボールを持っている限り強いが、失った瞬間が最も脆い」配置です。これに目をつけたのが、保持型を強度とマンマークで殴る現代の対抗策で、アタランタがレヴァークーゼンを完封した試合の本質もここにあります。
第二に、3-2-5の生命線は「位置的優位」です。5レーンに立つことで生まれる、相手の捕まえにくさが武器です。だからこそ、その位置的優位を真っ向から人で消しにくるマンマークが最も効く。書籍が「配置かみ合わせ論の終着点がマンマーク」と書く通り、3-2-5の隆盛とマンマークの隆盛は表裏一体です。
名古屋グランパス目線での適用
ここで面白いのは、ミシャはこの3-2-5が標準化するずっと前から、その原型を実践してきた監督だという点です。ミシャ式が攻撃時に見せる、4-1-5から2-3-5への変形。時には1-4-5まで変形していきます。
最終ラインを2〜3枚に絞り、WBを最前線まで押し上げて前線5枚を作るあの形は、まさにビルドアップ隊とフィニッシャー隊の分業そのもの。グランパスのビルドアップを語るときに、「アナリシス・ブレイン」の枠組みは「いま何人が組み立てに残り、何人が刺しにいっているか」という観察軸を与えてくれます。攻撃が手詰まるときは、たいていこの2隊の人数バランスが崩れていることがほとんどです。この半年で、前に人数がいるのに手前に人数が不足していて、ただのクリアを拾いきれずに攻撃が続かない。最悪のときにはカウンターになるというシーンをファミリーならよく見ていたはずです。
ミシャ式は位置的優位を生命線にするチームなので、それを人で消しにくる相手、つまり走力と球際でマンマンに来るFC町田ゼルビアのような対人・強度型と当たると最も苦しくなります。さらにWBを最前線まで上げる構造ゆえに、ボールを失った瞬間に最終ラインの脇とWBの背後が広大に空く。3-2-5の宿命的な弱点である「失った瞬間の脆さ」を、ミシャ式は人一倍抱えています。実際、J1百年構想リーグ順位決定プレーオフ第2戦、ほぼゲームを支配しながら守備への切り替えが遅くなる試合終わり間近の時間帯に守勢に回り、退場者を出して数的不利に陥ると一度は勝ち越すものの、押し込まれて逆転負けを喫することになりました。
この試合はまさに「保持して殴るグランパス」と「混沌で殴る相手」という、らいかーるとさんが描いた二極の対立が、グランパスの試合では毎節のように立ち上がっているわけです。
我々としては「グランパスの3-2-5(ミシャ式実装では4-1-5)は、5レーンを誰が埋め、余る1枚が誰で、失った瞬間に空く脇のスペースを誰が埋め戻すのか」という3点セットで毎試合を観察すると、ミシャ式の良い日と悪い日が構造で説明できるようになります。
7年経って、変わったこと(3) 三つの優位性という物差し
最後が、分析の道具立ての精緻化です。「アナリシス・アイ」が「結果ではなく現象を見よ」という姿勢を説いた本だとすれば、「アナリシス・ブレイン」は「その現象を、どんな物差しで測るのか」という道具立てを揃えた本だと言えます。その道具が3つあります。
まず、プレーを「判断」と「実行」に分ける
らいかーるとさんがいちばん基礎に置くのが、ひとつのプレーを「判断」と「実行」に切り分けて評価する、という考え方です。
例に出されるのがミドルシュートです。ペナルティエリアの外からシュートを打ったとき、まずは「判断」の妥当性を問います。その選手はミドルを決める可能性が高い選手か、シュートコースは空いていたか、相手GKはミドルのセーブを苦手にしていないか。こうした条件からゴールの可能性が高いと言えるなら、「打つ」という判断は正しかったことになります。J1百年構想リーグ順位決定プレーオフ第1戦の高嶺朋樹のスーパーミドルは、シュートコースが空いていたのを見逃さなかった高嶺朋樹の判断が光ります。
その上で「実行」を別に評価します。仮にボールをうまく捉えられず枠を外したとしても、それは「判断は正しかったが、実行が伴わなかった」ケースなのです。「外した、悪いプレーだ」と一括りにしてしまうと、本当の改善点が見えなくなってしまいます。
さらにこの「判断」の評価には、3つの文脈が上乗せされます。「チームとしての考え方」「残り時間」「スコア」です。積極果敢なプレーモデルなら多少強引なシュートも良しとされるかもしれません。また残り時間が少なければシュートで終わること自体に価値があります。
上の高嶺朋樹のシュートはアディショナルタイム。まさにシュートを打つことに価値がありました。
逆にリードしている後半43分なら、シュートよりボールキープを優先すべきかもしれない。同じ「打つ」でも、置かれた状況次第で評価が反転するわけです。
次に、オランダ式の4軸で実行を測る
判断と実行に切り分けたら、今度はそのプレーを「ポジション」「タイミング」「角度・方向性」「スピード」という4つの観点で見ていきます。らいかーるとさんは、この4軸を併せて考えることで「フィードバックが限りなく正確になっていく」と書きます。
たとえば味方へのパスがカットされたとき、立ち位置(ポジション)が悪かったのか、出すタイミングが早すぎた・遅すぎたのか、パスの角度や方向が違ったのか、それともスピードが足りなかったのか。「パスミス」のひと言を、4つの引き出しに分けて原因を特定できます。判断と実行という縦の切り分けに、この4軸という横の物差しを掛け合わせる。これがらいかーるとさんの分析の基本フォーマットです。
そして、三つの優位性で「どこで勝っているか」を腑分けする
ここまでが個々のプレーを測る物差しだとすれば、チームとして「どこで相手に勝っているのか」を腑分けするのが、三つの優位性です。「アナリシス・アイ」でも「数的優位」「質的優位」という言葉は使われていましたが、「アナリシス・ブレイン」はそこに位置的優位を加えて3つを正式に並べ、「どの優位性で崩しているのか」を分析の中心軸に据えました。
数的優位は、文字通り人数の多さがアドバンテージになることです。相手のワントップに対して2人以上でビルドアップする、WG対SBの場面で味方SBがオーバーラップして2対1を作る、といった形です。
位置的優位は、相手が守りにくい曖昧な立ち位置を取ることで生まれる優位です。らいかーるとさんはここで重要な区別を付けています。「自分が優位にボールを受けるための立ち位置」と「味方を優位にするための立ち位置」は違う、という点です。だから位置的優位は、その立ち位置の意図が味方に理解されないと、完璧なひらめきも絵に描いた餅になってしまう。ここが位置的優位の「玉に瑕」なところだと書かれています。
質的優位は、選手個人のクオリティから生まれる優位です。特定のマッチアップで相手を上回る可能性が高い状態を指します。身体の大きなCF、ドリブル突破が得意なWG、狭い局面でも奪われない中盤の選手。裏を返せば、絶対に抜かれないDFもチームに質的優位をもたらします。らいかーるとさんは「相手がマンマークでくるなら、突破してしまえばいい」という原始的な発想こそが、質的優位対決の出発点だと書いています。この発言はなんとなく風間八宏元名古屋グランパス監督っぽいですよね(笑)
グランパスで腑分けしてみる
この3つの物差しは、グランパスのどこで優位が生まれているかを腑分けするのに、そのまま使えます。DF4-CMF1の状態からサイドCBが列を上げてビルドアップが2対3になるのは数的優位。シャドーがライン間に立って相手が捕まえあぐねるのは位置的優位。WBや幅を取る選手がサイドの1対1で勝てるのは質的優位です。
ここで「位置的優位は意図が共有されないと成立しない」というらいかーるとさんの指摘が、ミシャ式の本質を突いてきます。ミシャ式は、シャドーやWBが相手の基準点をずらす立ち位置を取り続けるサッカーです。つまり位置的優位を最大の生命線にするチームです。だからこそ、その立ち位置の意図がチーム全体で共有できている日は、相手がどこを捕まえればいいか分からなくなって面白いように崩せる。逆に共有が甘い日は、せっかくの立ち位置がただ「そこに立っているだけ」になり、ボールが回るのに崩れない、という、誰もが覚えあるあの停滞が生まれます。ミシャ式の良い日と悪い日の差は、この位置的優位が「絵に描いた餅」になっていないか、で説明できる部分が大きいわけです。
マンマーク論とつなげると、武器になる
そして前項のマンマーク論とつなげると、分析に深みが出ます。
相手がマンマークでグランパスの位置的優位を消しにきたとき、チームは残る2つ、つまりゴールキーパーやリベロを絡めた数的優位か、球際で負けない質的優位のどちらかに勝機を移さざるをえません。位置で作る優位を人で消されたら、数で上回るか、個で上回るしかない。これは三つの優位性を並べたからこそ見える、勝ち筋の引き算です。
「ミシャ式は今、位置で勝てない局面で、数と質のどちらに賭けるのか」。
この問いこそ「アナリシス・ブレイン」がグランパス・ウォッチャー提示する、いちばん重要なポイントだと思います。
ここまでの4つの「変わったこと」は、いずれも攻撃側、つまりボールを持つ側の進化の話でした。ですが、優位性というものは、すべて相手の守備を相手取って初めて意味を持ちます。そして「アナリシス・ブレイン」の第1章は、この攻撃側の話を終えたあと、2つの土台に立ち返って幕を閉じます。守備が実際にどう動いているのか、そして、その盤面の上でプレーする選手が何を考えているのか、です。続けて、この2つを見ていきましょう。
「マンマーク全盛」の足元で起きていること
ここまで「マンマーク」を、ひとつの塊として語ってきました。ですが、ピッチ上の守備は、そんなにきれいに「ゾーンか、マンマークか」と割り切れているわけではありません。らいかーるとさんは、現代の守備は両者が混ざり合った状態でやってくる、と整理します。相手陣地ではマンマークではめにいき、ゴール前ではスペースを守るゾーンに切り替える。あるいはボール周辺だけ人意識を強め、ボールから遠いエリアはスペース意識を強める。こうした「いいとこ取り」が普通になっている、というわけです。
そのゾーンディフェンスの仕組みを、らいかーるとさんはファーストDFとセカンドDFの関係で説明します。ファーストDFがボール保持者に圧をかけ、その斜め後ろのセカンドDFが、手前に自分のマークを置きつつ、背中で別の相手へのパスラインを管理する。この連動が全員分そろって、初めてゾーンは成立します。
ここで「アナリシス・ブレイン」が鋭いのは、ゾーンが崩れる起点を「ファーストDFの決定」に見ている点です。たとえば相手が3バック、自分たちが2トップだと、単純に人数が足りません。配置をそのままに守ろうとすると、誰がボール保持者に行くのかが曖昧になり、「ボール保持者をフリーにしない」というゾーンの大前提が崩れてしまう。かといって、相手の3バックにかみ合わせて自分たちも配置を動かすと、今度は得意なエリアから引きはがされてプレーを強いられます。らいかーるとさんは、今の日本代表が配置のかみ合わせを嫌がる理由のひとつとして「WGが想定以上に自陣まで下がることになるから」という現場の声を紹介しています。守備をかみ合わせる代償として、攻撃の武器を自陣に埋めてしまう、というジレンマです。
これはそのまま、グランパスが前から行く日のパターンになります。ミシャ式が高い位置からはめにいくとき、相手の最終ラインの枚数とこちらの前線の枚数が合わないと、ファーストDFの所在が曖昧になり、運ばれてしまいます。グランパスの守備が「ハマる日とハマらない日」に割れるのは、試合の入りでこのファーストDFの整理ができているかどうかが、ひとつの分岐点になっているわけです。
そしてもうひとつ、マンマーク全盛の時代だからこそ生まれた「逆用」の発想があります。マンマークは、相手がサイドに動けばサイドまで追い、ゴール前に上がればそこまでついていく。裏を返せば、守る側は相手に自分の立ち位置を握られている、ということです。この習性を逆手に取り、相手を意図的に動かして、自分たちの準備したプレーが出る場所を空けにいくチームが出てきました。代表例が「中盤の空洞化」です。全員で中盤にスペースを作る配置を整え、マーカーごと相手を引き連れて空けた中盤で、別の選手がフリーでボールを受ける。マンマークの「ついてくる」性質そのものを、エサにしてしまう作戦です。
これは、マンマークに苦しむミシャ式にとって、ひとつの処方箋になり得ます。シャドーやボランチがあえて引いてマーカーを連れ出し、空いた中盤を別の選手が使う。どこまでもついてくる相手に対して、グランパスが「動かして空ける」設計をどれだけ持っているか。持たされて停滞する試合を打開できるかどうかは、この一点にかかってきます。
そして、盤面を降りて「選手の頭の中」へ
第1章の最後で、らいかーるとさんは盤面そのものから降ります。ここまで語ってきた配置かみ合わせ論や優位性の議論には、どうしても「選手を駒のように扱ってしまう」という弱点がある、と自ら認めるのです。選手には感情があり、自分なりの判断がある。優先されるのはチームの約束事ですが、選手の判断も同じくらい尊重されなければならない。頭ごなしに否定すれば、選手は言うことを聞かなくなる。学校や社会と同じだ、と。ここからは、指導者の目線に切り替わります。
出発点は「見る」ことの徹底です。
選手は「周りを見て、状況を知り、決断して、受けて、実行する」という順でプレーしますが、最初の「見て、知り」がおざなりなケースが多くなります。
試合後に作戦板で状況を再現し、「適切なプレーは何だったか」を問うと、不思議とほとんどの選手の答えは一致するそうです。つまり、状況さえ正しく見えていれば、悪いとされる判断は自然と減っていく。
だから振り返りには順序がある、とらいかーるとさんは言います。
- まず「何を見ていたか」
- 次に「その景色に対してどうプレーしようと考えたか」
- 最後に「判断と実行はどうだったか」
この順で確認していきます。
ここで、グラぽで書く我々の耳が痛い一節があります。
らいかーるとさんは、頭ごなしに「もっとこうすべきだった」と振り返ることは、コーチも観客もできる限りやめよう、と釘を刺すのです。
グラぽを読んでくださる方は、グラぽを読んで「煮え切らなさ」を感じることがありませんか。たまに私たちはヌルいと言われることがあります。
グラぽでは断罪をするような論調はやめよう、編集部のなかでは言い合っています。ただ、真剣に向き合うと「もっとこうすべきだった」と言いたくなることもありますが、その言い方は裏読みすると「誰がこうできていなかったのか?」ということを責めるようにもなります。それは避けたい。その代わり「こういう意図だったよね」「こうしたかったよね」ということを酌んだ記事にしようとしています。安易に断罪する「暗黒面」に落ちないようにしたい。そう思っています。でも人間なので、完璧ではないですので、危なそうなときはそっと教えてください。
本題に戻ります。
選手が見ていた景色、考えていたこと、やりたかったプレーを整理せずに結果だけを断罪しても、選手には届きません。
選手にとっては、何を見て何を考えていたかを言い当てられたとき、「ああ、よく見てくれている」「よく理解してくれている」と信頼関係が生まれます。
観戦して論評する立場の人間こそ、そこを目指すべきです。刺さる戒めだと思います。
そして「見る」対象として、らいかーるとさんが特に足りないと指摘するのが「味方を見る」ことです。
多くの選手は、自分とパスを交換する相手のことはよく見ているのに、ボールを持っていない他の味方がどこにいるかを確認できていません。
味方がボールを受けにいっているのに、自分まで受けにいく必要はないでしょう。「一つ先の未来で待ち合わせ」するくらいの意識でいい、という表現が出てきます。シュートを打ったらゴールを見るように、パスをしたらどうなるかを予測する。「未来を見る」とは、こういう具体的な作法のことなのです。
この「味方を見る」が決定的に効くのが、CB同士のようにコンビプレーが必須のポジションです。互いの考えと立ち位置を常に把握し合い、ピッチで起きることに一緒に対応する。この相互関係は、意識すれば自然と育つ、とらいかーるとさんは言います。
ここはミシャ式の可変ビルドアップでもポイントになるところです。セントラルMFが列を下げ、両脇のCBが広がって後方を組み立てるとき、その2〜3枚の相互理解が崩れると、最終ラインから危険な形でボールを失います。グランパスのビルドアップが安定している時期は、たいていこの最終ラインの選手同士が「お互いを見て」連動できています。逆に、レギュラーではない選手が最終ラインに入った直後にしばらく組み立てが不安定になりがちなのも、この相互関係がまだ構築途上だから、と説明できます。サッカーゲームでは選手を並べればすぐに活躍できますが、実際の試合では同じ「3バック」でも、中身が噛み合うまでには時間がかかります。
最後にらいかーるとさんは、もうひとつ「見る」対象を付け加えています。
マッチアップする相手の目です。
良い選手は相手の目を見て、相手が何を見ているかを試合中に認知している。だから良い選手同士が対峙すると、しばしば目が合うのだ、と。相手が次に何をしようとしているかを読むために、相手の視線を見逃すな、という指摘です。
盤面の分析から始まった第1章が、最後は「選手が相手の目を見ているか」という、これ以上ないほど人間的な観察で閉じられる。この振れ幅こそが、らいかーるとさんの分析の特性なのだと思います。


